よしだたくろう(吉田拓郎)

(拙記事、うたの旅人「旅の宿」を一部再録)

吉田拓郎さん・・・
1970年春、ラジオ関東(現ラジオ日本)の横浜スタジオに当時の番組「フォークカプセル」の収録中に現れ自分の自主製作盤を聞いてほしいという。熱心なその男に根負けしたディレクターの金子洋明さんは持ち込まれた自主製作盤をかけた。「ぶっ飛んだ」と言う。持ち込んだ曲は「イメージの詩」だった。番組は急きょ内容を変更その男、吉田拓郎さんの曲を流すことになる。この曲はその年の6月にシングル盤として発売される。

70年以後いわゆる学生運動は鎮静化し、当時の政治をテーマとした歌の多かった関西フォークも求心力を失っていった。そのなかで拓郎さんの屈託のない声や明るい旋律そして反体制のにおいがしない曲がうけたのだろうか。

72年吉田拓郎さん作詞作曲の「結婚しようよ」が大ヒットとなる。こうして拓郎さんのフォークは当時のニューミュージック。J-POPの走りとして地位を築いていく。

72年の初めギタリストの石川鷹彦さんは拓郎さんに誘われ、二人でアルバムのレコーディングを開始する。
石川鷹彦さんは当時拓郎さんがMCをしているニッポン放送の「フォークビレッジ」でアマチュアバンドの曲のアドバイスをする役目をしていた。
録音が始まって数日後、鷹彦さんが拓郎さんに見せたのが岡本おさみさんの詞「旅の宿」だった。
当時はテレビに出ない拓郎さんに対してのマスコミの評価は厳しかったという。
拓郎さんの評価が安定するのは75年にかぐや姫らと一緒に交互にステージに立った静岡県掛川市「つま恋」での野外コンサートだった。
夜通しのコンサート、終焉予定の日の出がなかなか現れす、拓郎さんは最後の曲「人間なんて」を数十分観客と合唱した。
この話は伏線があり、71年の全日本フォークジャンボリーでの出来事、出番で電源が故障し、音源なしで出来る曲として、やはり観客とこの曲を2時間にわたり合唱することになったこと。拓郎さんはフォークジャンボリーのメインステージでの野次を嫌がり。サブステージでこの曲を歌っていた。
(当時の政治的なことがテーマの関西フォークが主流のフォークジャンボリーでは、時流とは違う歌を歌う拓郎さんは異端視されていた。むろん拓郎さんを支持する人も多かったが・・・)

以降、作詞;岡本おさみ、作曲;よしだたくろうのコンビは、森進一;歌、「襟裳岬」の名曲を生み出します。フォーク系の作曲家が歌謡曲の歌手に楽曲を提供したのは初めての例で、この成功により、これ以降、フォーク系の作曲家の歌謡曲ジャンルへの楽曲提供が増えることになります。
またこれ以降、それまでお互いに全くの縁のない状態だったフォークシンガーたちと同年代の歌謡曲歌手が、コンサートやテレビ収録などでフォークをカバーすることが多くなります。


あれから30年以上の年月がたち、すっかりJ―POPの時代になってしまった日本の歌謡界、拓郎さんは一定の位置を得ている半面、かつての70年代に活躍したフォークシンガーの人々らは、現在でも地味に活動を続けている一部の人たちを除けばかなり歌の現場を離れた人もいて、時代の流れを感じます。

無論70年代以降プロテストのフォークが全く廃れたということではないのですが、
(まあ個人的には必ずしもそうではないと思うのですが)政治が一定の安定を迎えた今、
フォークは個人の生き方を語る場面が多くなったのか、でもそれだけでいいとは思わないが。)

今思い返して見ると、拓郎さんの存在、日本の音楽界へ与えた影響はとても大きいのではないかと思います。

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