うたの旅人「翼をください」

 

三重県志摩半島にあるリゾート施設「合歓の郷」。そこの野外ホールで1970年ごろに「合歓ポピュラーフェスティバル」が開かれていた。
作曲家としてヒットメーカーの村井邦彦さん。弱冠24歳で著作権を管理する音楽出版社アルファミュージックを設立。その翌年のことだった。

村井氏「そのころ美空ひばりさんの持ち歌を別の歌手がカバーし、ひばりさんサイドが激怒するという事件があった。歌はだれのものかって話。歌は作り手のもので、多くの人に歌い継がれてこそ価値がある。それをはっきりさせたかった。」

作詞は、山上路夫、この歌の制作のやり取りで時間がかかり、東京から会場に車を飛ばして駆け付けた村井さんが、フォークグループ「赤い鳥」に楽譜を届けたのは開演2時間前。コーラスアレンジをその場で完成させるあわただしさだった。
「翼をください」は76年に発売、当時は名曲誕生の予感はなくシングル盤「竹田の子守唄」のB面扱いにすぎなかった。

赤い鳥は69年の全日本ライトミュージックコンテスト(LMC)で「竹田の子守唄」を歌いクランプりを獲得。デビューのきっかけに。
赤い鳥メンバーはリーダーの後藤悦治郎氏が結び付ける、後に結婚する平山泰代さんとデュエットで実家近くの尼崎でアマチュアのコンサートを行っていたが、ハーモニーに厚みを持たせようと別グループだった山本俊彦さんと新居(のちの山本)潤子を誘う。後に大川茂さんも加わる。
それぞれすでに仕事を持っていて、グループのプロ化を渋っていたメンバーを村井氏が口説いて、プロに。

赤い鳥は当時の代表的フォークグループとなり人気を博するが、74年で音楽の方向性の違いから解散する。

解散後はフォークソングを中心とする「紙ふうせん」(後藤悦治郎・平山泰代)。ポップミュージックを志向する「ハイファイセット」(山本俊彦、新居順子、大川茂)に分かれてそれぞれの活動に。

「翼をください」はその後76年以後音楽の教科書に採用され、国民ソングと言われるようになる。

紙ふうせんの二人は95年の阪神大震災の被災地で歌うことによりこの歌の良さを再発見する。

そして94年のハイファイセット解散後ソロ活動となった山本潤子さんは、97年のサッカーワールドカップでの日本のサポータの「翼をください」の大合唱で、

(この歌の意味合いを知ったのだろうか)「癒しの歌と思っていたのに応援歌にもなるんですね」、

潤子さん、赤い鳥解散後は歌唱を避けていたこの歌を改めてソロで録音し直しステージでも歌い始めた。
(以上朝日新聞の記事を参考にしました)

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この歌がこれだけ歌われるとは、やはり教科書が大きいのかな。日本のフォークを代表するような曲になったのか。歌謡フォークっぽい作品なんだけど。出来はいいと思う。
癒しの歌。

 

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