うたの旅人「旅の宿」

 

うたの旅人「旅の宿」
岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲

1969年の晩秋、27歳だった作詞家の岡本おさみさん(68歳)、列車で青森を訪れました。
 新婚旅行でした。十和田湖に近い十和田市の一軒宿「蔦温泉旅館」。新婚の夫婦は、10畳一間の和室で、火鉢の鉄鍋にとっくりを浮かべて熱かんをつけ、寒さをしのぎました。ほろ酔いになった妻が、道で拾ったススキをかんざしのように髪にさし、くすりと笑いました。
 窓枠の向こうには左半分が欠けた月。「あの月なんて言うんだっけ?」。岡本さんが聞くと、天文雑誌を定期購読していた妻が「上弦の月よ」と教えてくれたそうです。
 浴衣の君はススキのかんざし--。この体験談を岡本さんが「温泉で口ずさむような詩」にしたのが「旅の宿」です。「『ひとつ俳句でもひねって』はいないけど、それ以外ほぼ実話なんです」

 岡本さんは当時、在京ラジオ局ニッポン放送の音楽番組「フォーク・ビレッジ」で、フリーの構成作家をしていました。番組の司会が歌手吉田拓郎さん(64歳)です。後にヒット曲を生む名コンビとなる2人ですが、酒を飲んだり、議論したりしたことは、一度もないといいます。ただ岡本さんは原稿用紙に詩を書いて吉田さんに郵送しました。

 その3年後、吉田さんの歌「旅の宿」が発売され、70万枚を売るヒットになりました。
 「旅の宿」の後、岡本さんはラジオの仕事も辞めて旅に出ました。「ラジオ局と家の往復ばかりで外界を知らない。これで詩は書けないと思った」。20日旅に出て10日自宅にいる生活が3、4年も続きました。各地で人々に会っては、思いを詩にし、「旅の宿」の時と同じように吉田さんに郵送します。その詞に知らないうちに曲が付き、歌になります。森進一さんが歌った「襟裳岬」もその一つです。74年に日本レコード大賞を受賞しました。

 一方、蔦温泉旅館の従業員たちは、「旅の宿」がこの宿で生まれたことを長く知りませんでした。
 接客課長の福田妙子さん(55)が、「ここが『旅の宿』の宿ですね」と宿泊客に言われて驚いたのは、つい十数年前のことだといいます。
 蔦温泉には今も、拓郎ファンが年に十数組、岡本さんの滞在した「66号室」を指定して泊まりに来ます。ギターを持ち込んで歌う人もいるそうです。
 

この曲はアルバム「元気です」に収録され、先行シングルとして発売された。チャート1位となり。当時の歌謡曲全盛の時代に風穴を開けたと言われる。

吉田拓郎さん・・・
1970年春、ラジオ関東(現ラジオ日本)の横浜スタジオに当時の番組「フォークカプセル」の収録中に現れ自分の自主製作盤を聞いてほしいという。熱心なその男に根負けしたディレクターの金子洋明さんは持ち込まれた自主製作盤をかけた。「ぶっ飛んだ」と言う。持ち込んだ曲は「イメージの詩」だった。番組は急きょ内容を変更その男、吉田拓郎さんの曲を流すことになる。この曲はその年の6月にシングル盤として発売される。

70年以後いわゆる学生運動は鎮静化し、当時の政治をテーマとした歌の多かった関西フォークも求心力を失っていった。そのなかで拓郎さんの屈託のない声や明るい旋律そして反体制のにおいがしない曲がうけたのだろうか。

72年吉田拓郎さん作詞作曲の「結婚しようよ」が大ヒットとなる。こうして拓郎さんのフォークは当時のニューミュージック。J-POPの走りとして地位を築いていく。

72年の初めギタリストの石川鷹彦さんは拓郎さんに誘われ、二人でアルバムのレコーディングを開始する。
石川鷹彦さんは当時拓郎さんがMCをしているニッポン放送の「フォークビレッジ」でアマチュアバンドの曲のアドバイスをする役目をしていた。
録音が始まって数日後、鷹彦さんが拓郎さんに見せたのが岡本おさみさんの詞「旅の宿」だった。
当時はテレビに出ない拓郎さんに対してのマスコミの評価は厳しかったという。
拓郎さんの評価が安定するのは75年にかぐや姫らと一緒に交互にステージに立った静岡県掛川市「つま恋」での野外コンサートだった。
夜通しのコンサート、終焉予定の日の出がなかなか現れす、拓郎さんは最後の曲「人間なんて」を数十分観客と合唱した。
この話は伏線があり、71年の全日本フォークジャンボリーでの出来事、出番で電源が故障し、音源なしで出来る曲として、やはり観客とこの曲を2時間にわたり合唱することになったこと。拓郎さんはフォークジャンボリーのメインステージでの野次を嫌がり。サブステージでこの曲を歌っていた。
(当時の政治的なことがテーマの関西フォークが主流のフォークジャンボリーでは、時流とは違う歌を歌う拓郎さんは異端視されていた。むろん拓郎さんを支持する人も多かったが・・・)

あれから30年以上の年月がたち、すっかりJ―POPの時代になってしまった日本の歌謡界、拓郎さんは一定の位置を得ている半面、かつての関西フォークの人々らは地味に活動を続けている人たちを除けばかなりうたの現場を離れた人もいて、時代の流れを感じます。

無論70年代以降プロテストのフォークが全く廃れたということではないのですが、
(まあ個人的には必ずしもそうではないと思うのですが)政治が一定の安定を迎えた今、フォークは個人の生き方を語る場面が多くなったのか、でもそれだけでいいとは思わないが。

今思い返して見ると、拓郎さんの存在、日本の音楽界へ与えた影響はとても大きいのではないかと思います。
(以上。朝日新聞日曜版、「うたの旅人」2010年12月4日の記事を参考にしました。)



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